認識における美術史-7 歌川広重「東海道五十三次」及び吉澤葵「日常の片隅に」における原時間の流れ

認識における美術史-7

歌川広重東海道五十三次」及び吉澤葵「日常の片隅に」における原時間の流れ

前回、認識における美術史-6において、原時間における認識行為を基とし、自己意識の往還運動の美術表現への参入の在り方の中に、その参入する各表現要素としての色彩、線質、フォルム等の要素には、プラスとマイナスの性質があることを補足した。

「原時間」における他所的、他者的自己による表現要素への参入がマイナス。

現今「現時間」における自己自我による参入がプラスであった。

作者は認識における(美術表現としての)空間を作品として創り、観者は自らの認識行為の中に、その性質と共に空間を観ているのである。

今回は浮世絵、※1東海道五十三次及び吉澤葵「日常の片隅に」を作例に、それぞれの表現の中に、認識における美術の定理の在り方を比較考察してみたい。

歌川広重作浮世絵、東海道五十三次。この多色刷り版画の一枚一枚が旧東海道宿場に対応し、日本橋に始まり、品川宿から三条までの宿場の名所の実景であるかのような錯覚を覚えるが、よく観れば印象派の作家たちの動機と制作に影響を与えたという説がある通り、大胆に装飾的デフォルマシオンされ、実景的雰囲気を含みつつ、これらは仮想の絵画空間であることが判る。

神奈川宿 台の景」の宿場家並みからそのまま上空の空に続く、目線を誘うフォルムである事の優先や「日坂 佐夜ノ中山」の左端から右上に上昇し画面を越え出るフォルムの装飾的表現にしろ、実景は参考にされたにせよ、絵画空間として再創造された景色であることが観られるからだ。

では、これら宿場絵が原時間における他所的、または他者的イマージュがあるかという事を考察してみたい。たしかに疑似三次元平面である山水画として「空白」の活かし方も、筑山のデフォルメも巧妙であり、宿場名、落款における「書」表現も、二次平面としての空間の動揺を誘うようではあるが、これら総体の印象が「他所的空間」へ誘うかと言うと、それは違うようである。

私がこれまで述べてきた他所的-異相空間とは、他所的空間イマージュの想起であって、絵画の中の、あれこれの空間ではない。自己意識の往還運動における他所的自己が表現に参入することによる他所的空間その事(イマージュ)なのである。

その観点から見ると、これら宿場画には、観者に対して他所的異相へ誘うイマージュはなく、あくまでも、その「宿場(の絵画)実景」へと目線、印象を留めていることが判る。内的、他所的空間というならば、疑似的他所空間と言えばよいであろうか。同様に、他者的自己としての光り現象も、疑似的光り現象であると考えられる。

むろん、その事が絵画として劣るという意味ではない。

品川宿、平塚、金谷、三島、大津、京都-三条大橋に至るまで、殆どの宿場絵の上部を枠状に区切る工夫にわかる通り、自己自我を「東海道五十三次」に引き込み、空想をその内部に留め、充分に楽しむ絵画として優れているという事であるだろう。

一見すると空-大気表現にも観える上部の層は、左右に施された縁飾りによって、観者の意識を常に装飾的絵画世界に引き戻し、留めるからである。また、これにより日本橋から京都-三条大橋まで東海道中の物語空間を、次々と味わう事ができる「時間表現」となっているだろう。この東海道五十三次宿場画は中世、近世美術に引き続がれる様式のマイナス表現を活かしつつ、総体は現今「現時間」の意識による、装飾的なプラス表現による絵画なのだと考えたい。

さて2023年3月、旧和辻哲郎邸を会場に開催の吉澤葵展「日常の片隅に」を考察してみたい。この作品は念入りに削られ、或いは一部彫跡を残され、木目の模様を活かしつつ微妙に彩色された木の下地の上に、岩絵の具によって、一見、コード線の絡まり、入り組んだ線と線が左右、上下へと画面の縁まで描かれている。

一見と書いたのは「日常の片隅に」と題されたように、生活空間に観られがちな絡まったコード線でありつつ、俯瞰すれば、二次平面としての線とフォルムの形態が浮かび上がるからである。また木の下地は、この線の動きとフォルムと連動し一体となり、時にシンプルな下地であることを見せるが、下地である事を越えて作品となっている事も判る。

この作品は、やまと絵や浮世絵などに観られるシンプルな疑似三次元性を踏襲しつつ、そのスタイルとタイトル性を共に動揺させ、二次平面としての線質やフォルムの間を環流し、私のイマージュを動かし続ける。これら「日常の片隅に」作品は、静かな奥行きのある原時間における異相空間へ観る者を誘い、描かれたあれこれの具体性を、時に見せつつ、またそれを原時間におけるイマージュの中に越える近(現)代の課題を持った作品である事は明瞭なのだろう。

 

※1

歌川広重東海道五十三次天保五年(1834年)作、保永堂版を考察対象とした。

 

あとがき

今回の考察はアメブログと共に、Hatena Blogにも発表した。

http://blog.hatena.ne.jp/kamakuranittiki

前回認識における美術史-6まで

アメブログ:岩渕祐一kamakuranittiki

https://ameblo.jp/kamakuranittiki

 

次回予告

「認識における美術史-8」

アンドレア・マンテーニャ「キリスト昇天」及びカスパーフリードリヒ風景画「氷の海」他における原時間の流れにについての考察